死者への宣誓

共同体は外部を排他したところに立ち上がる。
共同体の共同体たるゆえんは、その土地と血に関する排他的な記憶に根ざす。
従って、死者が生者を守るという土と血の物語が構成員の団結力を高めることになる。


政が祭祀であったと聞くと、いまでは時代錯誤も甚だしく思える。

だが、いくら滑稽に感じようと、共同体に連続し、それを統べるものは、死者を祀り、その力を取り入れることによって、己の権力の正統性の担保とすることは、揺らぎを見せていない。




<我々のために、彼らは額に汗して働き、西部に住み着き、鞭打ちに耐え、硬い土地を耕してきた人々だ>


<我々のために、彼らは(米独立戦争の戦場の)コンコードや(南北戦争の)ゲティズバーグ、(第二次世界大戦の)ノルマンディーや(ベトナムの)ケサンで戦い、死んだ人々だ>



「我々」が呼びかける「彼ら」とは、日本でいうところの「英霊」がもっとも適当だろう。




<歴史の中で繰り返しこうした男女がもがき、犠牲を払い、我々がよりよい生活を送れるように苦労してきた。彼らは、米国が我々の個人的な希望の集大成よりも大きい存在だと思っていた。生まれや富、党派の違いより偉大だと思っていたのだ>

<我々は進む道を熟慮しながらも、今まさに、遠く離れた砂漠や山々で警戒に当たる勇敢なアメリカ人たちへ謙虚に、そして感謝の念を持ち、思いをはせる。彼らは今日、我々に教訓を与えてくれる。アーリントン国立墓地に眠る英雄たちと同じように。彼らが自由の守護者だからだけでなく、彼らは奉仕の精神を体現し、自分たち自身よりも偉大なものが存在し、それに意味を見いだす人たちだからこそ、たたえる。そして、この歴史的な瞬間に、まさにこの精神を我々がみな共有しなければいけない>


死者は無条件で讃えられなければならない。
なぜなら、生きる者は己の卑小さを見つめることから始めることに耐えられないから。




<我々の防衛一般に関しては、我々の理想と安全のどちらかを選ぶという間違った考えを拒絶する。建国の父らは、想像もできないような危険に直面しながら、法の支配と人権を確約する憲章を起草し、それは何世代もの血で拡大されてきた。これらの理想はいまだに世界を照らし、我々は方便のためにこれらをあきらめることはない>



「血で拡大されたもの」は常に血を求めずにはいられないだろう。
理想を阻む敵が来襲する可能性を除去するには、相手を殲滅するしかない。


ここでいう可能性とは、記憶に基づき、未来に投げかけられた幻想でしかない。しかし、人間は幻想を通じた現実の解釈を現実と取り違えてしまった、倒錯した生物なのだ。