2008-06-01から1ヶ月間の記事一覧
南方曼陀羅の夢を見た。 因果とは何かの示唆を受けた気がした。 たとえば、起きた出来事を振り返り、事実を並べて検証することが思考上ではできる。 そう、誰かとのやり取りをオセロや将棋にたとえるとする。 言葉のやり取りのさなか、ある局面をさかいに持…
自分が傷ついたと言い募る者は、常に誰かを加害者に仕立て上げる。あれが私を苦しめるのだと言い、その因果に固執する。 その苦みは、かつては甘美だったにもかかわらず。それを足かせにしているのは自己なのだ。 いったい前と後では何が変わったのだ。 起き…
ご笑覧いただければ幸いです。 『『拝啓マッカーサー元帥様』
人間の持つ感情である七情(喜・怒・憂・思・悲・恐・驚)には、意味がない。 なぜ起きるかという根拠を求められない。 天候は刻一刻と変わる。 そこに秩序は認められても「これがルールだ」という必定のルールはない。 ルールは常にそれ以外の何かが決定し…
新書の書評はじめました。ご笑覧いただければ幸いです。日経ビジネス 日刊新書レビュー 『ジャガイモのきた道』山本紀夫
経験の意味は、そのとき体験することにあり、経験を記述すること自体にはない。コップを落として割ったとする。 持ち方が悪かったから、手が濡れていてから滑った。 コップが割れたという結果から、そういう理由を見いだす。それらの理由は誤ってはいない。 …
火が燃えている。燃えているという結果に着目し、 燃えていなかった状態からのその変化への原因を問おうとしたとき、 「紙に火をつけたから燃えた」といったような、 「何かをしたから何かが生まれた」という考えが脳裏に疑いなく浮かぶ。 私たちはそうして…
五月雨は 露か涙か ほととぎす 我が名をあげよ 雲の上まで −足利義輝 ただ過ぎ去る時に足跡はない。 渚を洗う波を確かめることができないように。 では、過去が経験として固有の意味を確かに帯び、過ぎ去った時が形を持つのは何時か? 通常、過去が経験とし…
こちらをむいてくるひとは なんとなくなつかしさうなひと わかりさうなすがたのひと だんだんまぢかくなると まるつきりみもしらぬひと ぼくはそっぽをむいてすなをまく ー鄭芝溶
おまえたち、永遠な者たちよ。 世界よ愛せよ、永遠に、また不断に。 痛みに向かっても「去れ、そして帰ってこい」と言え。 すべての悦楽は永遠を欲するからだ。
言葉は感覚に訴えかけるためにあり、感覚を凝固するためにあるのではない。感覚はつねにいま・ここで運動し、 言葉にした途端、それは表そうとした感覚ではなくなる。 あのとき感じたことは、いまのことではない。 苦しみも喜びも思い出されるものは、すでに…
過去と過去の記憶は異なる。 過ぎ去ったことは、一陣の風のようなもので、風の吹いたことを思い返しても、 そのとき吹いた風は過ぎ去ってしまった。 記憶とは、常にいま改めて、そのつど思い返す出来事でしかない。記憶はいつもいま作られる。 それはいつ起…
花は、花を咲かせようとはしない。 鳥は飛ぼうとして飛びはしない。 そこにあるのは、ただ自然の働きだが、自然は何かをさせることはしない。 自然は何かに対し、特別な何かを行わない。 ところが人間の認識では、世界は自己と対立するものでしかなく、 そう…
これから先のことを考えることはできるが、 これから先のことを感じることはできない。 (感じられたと思えるものは、考えられた感覚だから) これまでのことを考えることはできるが、 これまでのことを感じることはできない。 (感じたと思われるものは、考…
「実存は外部にあるのだから、そこに隠れている法則を明らかにするべきだ」 そう客観主義者、実在論者は主張する。 「現実は社会的に構築されており、確かな法則など何もない」 と極端な社会構築主義者は言う。 現実をよく見るというのは、何かの価値で切り…
明確な輪郭を伴う自己は、すでに表象されてしまった主体であり、 したがって残像なのだ。 「世界のあらゆる場所を故郷と思えるようになった人間はそれなりの人物である。 だが、それにもまして完璧なのは、全世界のいたるところが異郷であると悟った人間なの…
「空中に円を描くような腕の運動をするとき、大きな円を描こうとする場合でも小さな円を描こうとする場合でも、それに要する時間はほぼ同一である、つまり腕を動かす線速度は円の大きさに比例する」 「この規則を意識的に変えることはできない。ということは…
対象化とは、非常に汎用性の高い行為だ。歴史であれ、ビジネスであれ、心理であれ何であれ、あらゆる出来事についてクリティカルに考える上で欠かせない。それが有効なのは、人為的に物事に介入している自覚を伴うときだろう。 長さの概念を以て初めて長さが…