観念の外へ
NHKスペシャル「JAPANデビュー アジアの一等国」に対する抗議が喧しいという。
見てみたが、ただでさえ映像によって概念を展開するというのは難しいのに、1回の放映分にしては詰め込み過ぎだという感慨をもった。
抗議の中に「過去の価値観を現在の視点で裁断することはできない」といった内容のものがある。
この意見を発した当人がどういう思いを込めたかはともかく、歴史を考える上で重要な問いではあると思う。
それが重要なのは、「過去の価値観を現在の視点で裁断することはできない」との言を自らの正当性を強弁するため、自己の見解に沿わない他者を否定するために持ち出さない限りにおいて、という前提を必要とする。
なぜなら、この問いは「時間とは何か?」を真摯に検討せずに、一歩も進めない重さを含んでいるからだ。
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過ぎたことは、いまのことではない。いまに過去は存在しない。
したがって「過去の価値観」とは、「現在に想起された、現在から見た過去の価値観」でしかない。
そうであれば、「過去の価値観を現在の視点で裁断することはできない」という言を正当化のために使う人もまた、「過去の価値観」を「それそのもの」として知ることはできない。
それは常に「現在から見た過去の考え」でしかないからだ。
左右を問わず、歴史は自己を正当化するために呼び出される代物ではない。
正当性の強調の裏には、「そうせずにはいられない」自己の不安が張り付いているのは、きわめて個人的な記憶に基づいているからだ。
当人は国家、社会を憂いて語っているつもりでも、他人から承認されない鬱屈がそうさせていることも多い。
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記憶によけいな口出しをさせず、いかに事実を提示していけるかが鍵だ。
過去の歴史を検証する上で、行政の文書を論拠にするのもいいだろう。
しかし、文書は現実の断片化である事実もまた確かだ。
書かれたものと現実の差、人々が実際にどういう思いを培ったのか。
人の暮らしの哀歓の積み重なりがもたらす陰翳は、表を飾る言葉や法の文言だけでは見えてこない。
他者に自分の信念を押し付け、その表れを史実とする前に、自分の信念とやらを吟味する必要が大いにあるだろう。
現実は常に観念の外にあるからだ。
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手前味噌ながら愛国心を考える上での参照までに。