常にそれではない、それ以外の何か

部屋で稽古中、干していた手拭いが揺れたのを見て、あのようであればいいものをと思う。


風のそよぎと手拭いの揺らぎを分けることはできない。


只管打坐。
「ただ坐れ」と道元は言ったが、ただ手を前へ、後ろへ、あるいは上へ下へと行うだけのことが極めて難しい。


いま風が吹いているのに、手拭いがそよとも揺れない。

そんなことなど自然界にありえないが、人間にとってもっとも近しい自然である身体では、
そのありえないことが起こる。


これから行おうとするイメージ、知識、経験といった、つまりは通常であれば肯定される総身のありようが罪障になる。


イメージ、知識、経験はすでに去ったものの残影だ。
それを呼び出すことは、目の前の食事を口に運びながらも、かつて食べたものの味と引き比べて食べるに等しい。


はたして、それを味わうといえるだろうか?



体験をイメージや知識、言語をくぐらせ、経験に置換するとき倒錯が起きる。

(体験とは起きたことの空間的把握、経験とは事象を時系列で把握する。したがって事象を原因と結果として理解しやすい)


自身の経験をかつての経験と引き比べ、理解することは、あたかも噂話で他人を知ったつもりになることと限りなく近い。


自身の経験を他人事として扱う手つきに馴れてしまい、そのものとして体験することを忘れてしまう。


花を知るに、ただ花を知る以外に知る手立てがあるものか?


先ほどの風はすでに去ってしまった。去ってしまっていまにない。
いまにあるのは、常にそれではない、それ以外の何か。