性的衝動

ペニー・ガムの思考法というものがある。自動販売機に硬貨(ペニー)を投入するとガムが出てくる。
その事実をもって「硬貨がガムに変化する」。
つまり、原因と結果が機械論的に対応するという考え方だ。


「女性の露出が増えれば男子の性欲に火をつける」といった話にペニー・ガム同様のしくみを感じる。


生命は所詮、時計仕掛けの機械であり、因果関係で記述できるものだ。
なぜなら生命を構成する組織を機械論に還元することが可能だからだ。

そういわれれば、人は誰しも「生命とはそういう短絡されたものではない」と反発するのではないか。


だが、そう思う人でも「女性の露出が増えれば男子の性欲に火をつける」
といった機械的な絵図を疑わないこともある。


短絡できないはずの生命現象がなぜペニー・ガムで捉えられてしまうのか。


感情的に反応しやすい事象は、感情自体に意味を必要以上に持たせてしまう。
それに目を奪われ、覆い尽くされる前に、静かに感じ、思い、考えるべきことがあるのではないか?


女性の露出と男性の衝動は比例するのか。私の周囲にも不快な目に合っている人は多い。

ならば比例しているのは事実であり、正しいのではないか。
露出が衝動を焚き付けている証左ではないか? 
だから控え目の格好をし、身を守り、慎ましくするべきなのだ、という言説は正しいのではないか。


正論に思えるが、この因果関係は、「見る者と見られる者」という非対称性を無視したところに成り立つ図式だ。

結果と原因を取り違えているから比例して見えるのだ。

その手の男性メディアを見れば一目瞭然なのは、
客室乗務員であれ喪服であれ、看護師、ニーハイ、レギンスであれ、
露出が多かろうがなかろうが、結局のところ問題ではないということだ。

実際、電車の中吊り広告で年中微笑みかける水着姿の女性や週刊誌の見出しの文句、
街頭で配られるティッシュの広告、コンビニの棚に並ぶ成人誌、迷惑メール。


それらが「何を着ていようが、まったく関係ない」ことを証明してくれている。


フェティッシュの問題であれば、ビジュアルが原因で欲情が結果ではなく、欲情があって対象は全方位。
つまり相関関係はあっても因果関係はない。


本質的には、“何を着ていようが欲情の妨げにまったくならない”
この自己本位こそが一番の暴力だと思う。

真に検討されるべき問題は、見られた側にあるのではなく、見る側が対象に投げかける眼差しにある。
あらかじめ投げかけたものを見出しておきながら、いまさら扇情されたというのだから。

その倒錯した視覚の構造が見えないことになっている。

こうした男性特有だと思われている性欲の発動の仕方が「幻想の女しか抱けない」ことになるだろう。

だが、私は思う。本当にそれは男性の本来性なのか、と。

「男の性欲は衝動的であり、男はそれを我慢できない」といった手合いのことをいう人たちがいる。
安易にかつ便利に「衝動」という語が持ち出され過ぎている。


ここでいう衝動は、「認識された感情の肯定」でしかないにもかかわらず。
つまり、それは「すっかり学習された情欲の発露のあり方」を肯定したのであって、激情とほど遠い。

あるいは、「どうでもいいことだけは、いつも繰り返してしまう学ばれた惰性」と呼んでもいい。

惰性は一見すると、本性や本能として見えるだけに要注意だ。

「男の性欲は衝動的」というのは、学習された神話ではないか。
それは男性性に対する高の括り方に思えて仕方ない。

そうして、こういうことを思うのは、私が理性的だからではなく、何が本来性なのか?を問うているからに過ぎない。


かつてギャルの取材をしたとき、印象的だったのは、彼女たちの「見られ方」だった。

当時流行っていたアーミー調で露出の多い服は男子から「怖い」と感じられたようで、
「男受けしない」と彼女たちは口を揃えて言った。つまり性的対象と見なされない。

同時にギャルと接触したことのない男性から
「あんな格好をしていたら、レイプされても仕方ない。自己責任だ」と脅す言葉を多く聞いた。

この捻れもまた対象が問題ではなく、対象化する眼差しの問題を明らかにしてくれる。

自己責任を他罰的に使いたがるのは、ただ自分が納得し、自分の価値観を守りたいからだろうか。


たかが60億分の1の小さい脳内に宿る事実を絶対視したいのか。
それとも誰かが被害を受けるという事態を本当に解決したいと願うのか。