蜂蜜のもたらす経験

京都の蜂蜜店で扱っている和蜜蜂の蜂蜜を手に入れた。
なんでも和蜜蜂の蜂蜜は「日本書紀」にも記されているという。

これまでオーガニック系の専門店で買っていたのは、洋蜜蜂の蜂蜜だが、
それと比べた味を味わおうと思った瞬間、おそらく和蜜蜂の味を損なってしまうだろう。

小指で掬って舐めてみる。たとえて言うなら和三盆のよう。
敢えて比べていえば、洋蜜蜂のような舌をぴりっと刺す甘みではない、甘み。

これまで食べた蜂蜜の味が経験的に残っているため、人に説明しようとすれば、「〜ではない甘み」という洋と和を何かの基準から対称させた上で、ものを言うことが非常にまどろっこしい。
それそのものを言いたいのだ。

コーヒーをいれるべく、ミルで豆を挽いていると、突然後味がやってきた。舐めてから、たぶん1分は経っていただろう。なんとも形容しがたい味だ。

いったいこれを客観的な表現で伝えることが可能だろうか。



言葉によって物事を理解することは、往々にして言葉によって、自分の理解できる水準に事態を引き下げることになりえる。

それの本当に意味していること以外のガラクタを理解と称することが、本人の知らないうちに起きる。その結果を指して考えるという。考えるとは常に「〜とは何か?」の問いかけであって答えを出すことではない。

事態を正しく把握することは大事だが、正しく把握できる客観的な特別な視座があると考え、右往左往することを思索や探求と呼ぶのは、誤りと迷妄の第一歩かもしれない。

客観的な蜂蜜の味はあるか?

「客観的に自分を見る必要がある」などと言われる。人は直接、己の顔を見ることができない。では、鏡に映った姿を見ることが客観的なものの見方になるだろうか。

鏡の中の自分を見た瞬間、それを「自分だ」と認識が追い付いている時点で、私は見られたもの・見慣れたものを見ていることになる。私は私の見たいものを見る以外に見ることができない。

では、世界は主観しかないのかというと、そうではないだろう。客観という概念が存在する時点で、何か、そう言わざるを得ないものがあるのだろう。
しかしながら、それは自分を離れた、他人事としての客観というものでは、断じてないだろう。


世界はいつもあるようなあり方で在る。主観的な早さで落ちる水滴も、客観的に燃え上がる炎もない。

世界はいつも悠然としてあるが、同時に世界はいつも退っ引きならない在りようで、そこには客観的あるいは主観的という幽霊は存在しない。