本質的欺瞞
人間というデザインは、人間の手によって為されたものではなく、自然の産生によってもたらされた。
そうである以上、人間の了解できる範囲の機能によって、デザインの何たるかが決定されるわけにはいかない。
「デザインは機能に従う」とは、バウハウスのテーゼであるが、こうした発想は工業製品のみならず、人間の身体観にも浸食している様子を見ると、ひとりバウハウスのオリジナルではなく、近代に底流しているデザインに関する思想といってもいいだろう。
しかし、その考えは本質的なものと言えるだろうか。
工業デザイナーがヒーターをデザインする際、
「いかに熱効率を高めるか?」という機能を求めてデザインする。
ところで球は最小面積で最大の体積を持つ。
球状構造のドームの直径を2倍にすれば、ドーム内の空気の容積は8倍になるが、ドームの表面積は4倍にしかならず、またドーム内の空気の分子の比率は当然ながら変わらない。
つまりドームの直径を2倍にすれば、熱を取り入れ、放出する空気分子の表面積は半減する。
バックミンスター・フラーによれば、直径1.6 キロのドームでは、ドームを形成するフレームの重さは、ドーム内に含まれる空気の重さを無視できる程度になるという。
そのときドーム外の寒暖に関係なく、ドーム内の温度は春先の気温に保たれる。そこに化石燃料を要するヒーターはいらない。
この機能は「このデザインの特定のポイントによるものだ」と名指しできない。
その不可視の働きをこそ本質的と呼べないだろうか。
人間の機能から人間のデザインを、本質を決めたがる人がいる。
性同一性障害特例法を強力に推進した政治家は、特定の宗教観、イデオロギーからジェンダーフリーに敵愾心を持つ人たちであった。
これは捩れではなく、障害を性自認、つまり脳の問題とすれば、後天的に獲得されるジェンダーなどありえないという思惑と合致するのだ。
彼ら彼女らは、性あるいは性差を強迫的なまでに実体的なものとして認めたがる。
差という距離を測定可能な物理的なものとして捉えたがる。
男女を単線の端と端として捉えれば、その差は測定可能に思えるだろう。
しかし男女の差はグラデーションに過ぎない。
アンドロギュヌスは外性器は男性でも、卵巣がある場合がある。
外性器は女性でも精巣があることもある。
性器は男性でも機能的には女性であるが、男性として生きていた。
性器は女性でも機能的には男性であるが、女性として生きてきた。
ここではジェンダーがセックスに先立っている。
かといって「ジェンダーがセックスを定義する」と断定するのも、
また早計に過ぎるだろう。
なぜなら人間というデザインは、人間の手によってなされたものではないのだから、人間の認識できる局内の機能によって、デザインは決定されない。
常に認識できる以外の何かが私たちを形づくっている。
そのことへの気遣いが、私たち自身をよく理解できる手助けとなるのだ。