先後



「空中に円を描くような腕の運動をするとき、大きな円を描こうとする場合でも小さな円を描こうとする場合でも、それに要する時間はほぼ同一である、つまり腕を動かす線速度は円の大きさに比例する」


この規則を意識的に変えることはできない。ということは、円の大きさに関係なく、円を描こうとする腕の運動は描かれるべき円の大きさをすでに最初から予想し、しかるべき速度を先取りしえ運動を始めていたのだということになる


馬が歩行の速度を速めようとすると、その歩行形態も(ステップ・トロット、ギャロップ・フルギャロップなどと)必然的に変化する
                   ヴィクトール・フォン・ヴァイツゼッカー





ここで重要なのは、「描かれるべき円の大きさをすでに最初から予想し、しかるべき速度を先取りしえ運動を始めていたのだということになる」の主語は誰か?ということだ。


その予想した運動とは、私が十全に意識したものならば、それはいまの運動ではなく結果から始められた、つまりは過去の行為に他ならなくなる。
結果としてそうなるということと、結果からコントロールされた動きは似て非なる。


これからしようとして行うことは、いまのことではない。
それが、どれだけ「いままさに」を強調しようとも。


いまの運動はすでにいまになく、常にいまの先もしくは後にある。

時間として先(後)にあるとは、時間という客観的なものが先(後)にあるということではない。


それは認識の刻印を帯びた、現実とは関係のない出来事だ。

過ぎ去ることも先へ進むことも同じだ。いずれもいまに居ない。