サン・トワ・マミー


言葉は感覚に訴えかけるためにあり、感覚を凝固するためにあるのではない。

感覚はつねにいま・ここで運動し、
言葉にした途端、それは表そうとした感覚ではなくなる。


あのとき感じたことは、いまのことではない。
苦しみも喜びも思い出されるものは、すでにあのときの苦しみであり喜びで、
いまの私のものでもことでもない。


月を照らす水がある。
月が水に映えたのか。それとも水が月を映したのか。


それを見る人間はどちらを先に見たのか。
見てしまっては、それをはっきりということはできない。
言葉では限定することができない。


どちらかに決めたがる心の働きのその善し悪しとは、心の外にあるのではなく、
常に我が心に存在する。
善しを善しとし、悪を悪とする執着として。


執着はいまへのこだわりに思えるが、実のところいまを離れて生きることでしかない。


現実には、いましか存在しない。
つまり執着とは、生命活動の本来からすれば、
ありえないことをわざわざやってのけていることになる。