アンボス・ムンドス

『アンボス・ムンドス』桐野夏生を読了。


誰しも切なさを押し殺して日々生きている。針で突けば皮は容易く破れ、血が噴出するくらいの思いを抱えている。


そういったことに、沈む夕日を見たり、人気のいなくなったエレベーターの中に取り残されたとき、不意に気付くことがある。そんな思いを桐野の小説に毎度感じる。


どこにも預けようのない感情を抱えることが、かといって人とつながれるような優しさや紐帯になるとは限らない。


それが悪意として結晶し、他人を排撃することもある。
それが自己を鍛えることにもなり得、従来の自己を打ち破る契機にもなりえることもある。
結果、たとえ社会から逸脱したにせよ、そのとき人はこの上ない開放感を感じるのかもしれない。


そういう意味で、桐野作品で特に印象深いのは『玉蘭』だ。


世間から見ての転落は、多くの場合、社会的地位の下降を指すが、社会の規範を飛び越えるという意味では、実は上昇なのかもしれない。


『玉蘭』では、主人公の女性は男と寝ることに対価を要求するようになる。
世間では、それを売春と呼ぶかもしれないが、愛を対価に自分を譲り渡さなくなった行為によって明らかになるのは、彼女は転落どころか、人間同士の了解を踏み外すことで、別のものに変容し、開放されていく様子だ。


それは小説世界の虚構といって片付けられないような、私たちが安全に社会生活を送るために後背に隠している何かを明らかにしている気がしてならない。


(今日、久方ぶりにお会いした池田清彦さんは、「虫の交配は完全にケミストリーで行われている。それに比べると、人間の愛情が病であるのは、脳のフィードバックよって行われているからだ」と話していた。これを私なりに解釈すると、「愛情は常に記憶によってもたらされている。つまりは残像を相手にしている」ということになるだろうか。観念で構築された枠組みを人は生きていて、それを外れることは恐ろしい)


『玉蘭』の主人公が到達した地点は、空気は薄く、荒れた地のような印象を受ける。だが、同時に殺風景ながら、ひどく懐かしく思えるのは、ベタついた情緒の付け入る隙間がないからかもしれない。それが善いとも悪いとも言えないような世界。


一切の取り決めを外したとき、それでも人間同士が交換しあえるものは何なのだろう。