安心の源
動物にとって食と性をめぐる争いは日常の出来事であり、かつ葛藤の源である。
動物は食を個人的なものとして争いを避け、性を公開することにより、所有を専らとする競合関係に陥らないことで、葛藤を解消しようとする。
しかし、人間はわざわざひとりで食べられるはずの食を他人と供にするという奇妙な行為に移し替えた。
その一方、性を非公開とし、排他的な関係を築く。
その結果、セックスをすることで親密になれるという交換に関する思い做しをつくりあげた。
食と性はコミュニケーションの手段となり、他者と時間と空間を共有できているという幻想が私たちの生を励ましている。
同時に、真に何が分かち合われているかを確認できないゆえに、その幻想はたちまち不安の源になる。
「時間と空間を共有することができている」と思えても、それらは名指すことも具体的に分割することもできない。本当にわかちあっているものは何か。
食卓でわかちあっているのは、腹を満たす食事ではない。
交換されているのは親密さである。
それは他人を理解しようとするための架橋であるが、それは両者間に決して架かることはない。
他人が何者か。また己が何者かを確定することはできない。
それゆえ、親密さとは、自分を他人のように扱わないこと。他人を自分のように扱わないこと、に尽きるだろう。
決して自他を「〜のように」と確固たる何かとして扱うことはできない。
交感されているのは、常に「それ」ではない何か。
理解されているものは、常に「私が思うそれ」ではない何か。
親密さとは、存在が存在するという事実を認めること。
相手が何者であるか、であったかは、私とは関係がない。
関係がないが、時間と空間を共有している事実において関係している。
人は孤絶しているがゆえにそうであることしかできない。
絶対的に孤絶していることがすべての安心と安住の源である。