記憶の総量
私たちは、私たちがこれまで生きてきた体験とその記憶が、
自分のアイデンティティを形成していると思っている。
だがしかし、今日一日のことを考えても、道ですれ違った人、同じ電車に乗り合わせた人、コンビニで出会った人。
そういう人がいたことは確かでも、私はそれぞれの人がどういう顔をして、どういう服を着ていたか覚えていない。
私の体験や記憶は、私の覚えていられる限りの狭い範囲でしかないということだ。しかも覚えていようとしても、忘れることもある。忘れようとしても覚えていることもある。
自覚できるアイデンティティというのは、たかだか自分が覚えているだけの記憶の選別の結果に他ならないということだ。
私が整然と述べられるアイデンティティというものが、私のリアルな体験と記憶によってつくられている以上、限りなく本物に近い贋物ということになる。
私が「これこそが私だ」と認めるアイデンティティは、私にとってフェイクに過ぎない。
アイデンティティは覚えている範囲の記憶の総量に等しい。
記憶はそれが鮮やかで、愛しくて、切なくて、つらくて、リアルであればあるほど、ますます真実そのときに起こったことから遠のいていく。
なぜなら、そのときに起こっていたことは、「そのときの出来事」と覚えていられる、ひとつの事象以外の事実から成り立っているからだ。
(だが、誰しもそのときの選択はひとつしかできない。ひとつ以外の選択は無尽にある。と同時にひとつしかない)
私の中にいまなお留まる切なく、甘く、苦く、歓喜に満ちた記憶がある。
まるで腕をもがれるような痛みを伴う記憶もある。
私はそれらの記憶を愛しく思う。
しかし、どうやら、それらはただの記憶であって、それ以上のものではないようだ。
切なく、甘く、苦く、歓喜に満ちた記憶は、「いま」というときに、いよいよ切実に思われるからこそ幻影なのだ。(過ぎ去ったことは、いまのことではない)
記憶は「私が私を見る」とき生まれる。
だが、ただ「私を見る」あるいは「私が見る」とき、記憶は生まれない。
なぜなら、「いま」という瞬間に「私が私を見る」という振り返りの時間が入る余地などないからだ。
歓喜も痛みももはや去るがいい。