水月

親密な間柄での言葉のやり取りは、まるでジャズの即興演奏のようなグルーブを与えてくれる。


互いの奏でるリズムは一見すると対称的でないように見えるが、対称性があるからこそ、調和は生まれる。

親密さの度合いが高まり、距離が縮まると、その対称性のもたらす均衡が崩れ、葛藤が生まれることがある。


なぜなら私は他者に期待を持つからだ。
期待通りにならない他者の存在に出会うとき、ついさっきまでなんとも思わなかった相手の言葉に私はわだかまりを持ちはじめる。


なぜ期待通りにならないのか。
相手がそうならない真意はどこにあるのだろうと考え、片言隻句にいたるまで分析にかかる。


勘ぐれば、好き、を嫌いに。きれい、を汚いに。それぞれの言葉に反転した意味を汲み出すことも可能だ。
相手のメッセージが明確にわかるのであれば、たとえ自分にとって不利な解釈内容でも、その確からしさにすがりたくなる。



だが、私は相手の言葉の本当の意味というものがいよいよわからなくなる。

それは相手が嘘や虚偽を話しているから、意味がわからなくなるのではない。
相手が本当のことを言っていても、その真意がわからなくなる。

そのとき私は初めて知る。


人は言葉のやり取りの中で、決して意味を交換しているわけではないのだと。
言葉に込めている感覚を私たちは受け取り、意味として認識している。


感覚とは、私が「そのときそうある状態」の中で感じていることがら。
他者に期待を抱いたまま距離が近付くほどに、私は葛藤を覚え、言葉の意味を把握しようとするが、接近する足はもつれる。


私がそれまで相手の言葉の意味を理解できたのは、相手の言葉を理解していたのではなく、相手の言葉に込めた感覚が私自身の中にあったからだ。


私に認識できない感覚を私は知ることはできない。
人が人に歩み寄るときは、私が見るべきは期待という名の幻想ではなく、私の感覚であり状態だったのだ。


それは静かにしていないと見えてこない。
それは月が姿を投じ、水が月を宿すような、忍び入るようで雷鳴のように劇的な何か。