在るとはどういうことなのか

唯識派によれば、存在は刹那刹那に生滅を繰り返しているという。
そして、刹那は数量化できる時間単位ではない。

その問いを持ちこたえられないものは、ノウハウに問題を矮小化しようとする。
しかし、どう観測すれば、現れて滅する運動を記述できるだろう。

専門的に考え、特別な意味を見いだすことは、「意味を与える行為」であることに留意する必要があるだろう。


今は、かつてとなり、そのかつては、かつて今であった。
今は今にあるが、その今は今と指差すことはできないが、今にある。


なぜなら、今がないことには、私も世界も今に存在しえない。

さっきと今は違う。しかし、今はある。

事実、存在は現れては滅し、滅しては現れている。
かくして、すべては変化している。


しかし、すべてが変化しているということは、
観測者もまた変化している以上、すべては変化していないことでもある。

ナーガルジュナの言うところの運動の否定とは、一切が変化という運動の過程である。
つまりはある視点から見られた特別な運動は存在しない、という意味ではないだろうか。