燃える火だ


火が燃えている。

燃えているという結果に着目し、
燃えていなかった状態からのその変化への原因を問おうとしたとき、
「紙に火をつけたから燃えた」といったような、
「何かをしたから何かが生まれた」という考えが脳裏に疑いなく浮かぶ。


私たちはそうして常に結果しか見ることができない。
だから、結果にわけいって、さかのぼり原因を見出そうとする。


着火しようという意志や燃やす紙、火のついた瞬間という原点が原因で、
その結果、炎があがると思う。


原因と結果というふたつの要因により変化が生まれたと信じて疑わない。


だが、着火の「瞬間」をよくよく考えてみたい。


瞬間とは、「それ」しかないような時であり、つまりはふたつのものが並び立たない。
「何かをしたから何かが生まれた」という悠長さは、瞬間にはない。


火が燃える。
その現象は明かであっても、その因はわからない。

だが、ひとつ明らかなのは、燃えた紙は灰にと、
常に変化しているという事態があるということだ。


その変化に因果は問えない。
「いま・ここ」で起きているという事実を
因果というふたつに分割することなどできない。


何かが起きたから何かが起きた。
過去を振り返り、結果から考えると因果関係は存在するが、
因がなんであるかを名指しできない。


だが現実には、いましかない。
存在するのは、常にいまという変化だけだ。