南方曼陀羅


南方曼陀羅の夢を見た。
因果とは何かの示唆を受けた気がした。


たとえば、起きた出来事を振り返り、事実を並べて検証することが思考上ではできる。
そう、誰かとのやり取りをオセロや将棋にたとえるとする。


言葉のやり取りのさなか、ある局面をさかいに持ち駒の白が黒にひっくり返り、
有利に見えた形勢が不利に変わってしまった。


自分のいままで見ていたものが、まったく違った意味を帯びてしまったことに驚き、慌てる。
私は疑心暗鬼になる。そして検証する。


均衡が破れ、持ち駒の白が一気に黒へと変わったとき、
「どの一手が悪かったのか?」と劇的な変化のポイントを見つけようとする。


しかし、白が黒へと変わる動きは、常に地下水のように初めから伏流していた。
善し悪しは結果からしかわからない。


劇的な一手につながるそれまでの駒の動きを取り上げて、
「どういう意図でそこに指したのか?」を相手にも自分にも問うことができる。


そして、それについて記憶をたどり、答えることができるだろう。
しかし、そのとき確かに「そう思った」ことは、本当のことでも嘘でもない


仮に嘘であっても結果が明らかになった後では、
それが嘘であるかどうかは現実に関係がない。
それは流れの中で起きたことでしかないからだ。


流れが変わってしまったのは、
私の見方が変わったからか? 相手が変わったのか? それとも局面が変わったのか?

おそらく全部だ。


意図を取り上げ、その手を指したときのその心持ちは?と重ねて問う。
そのときといまは違う。


同じ手をめぐっても、そのときの意味といまの意味は異なる。
比較しようとしても、本当は比較しようがない。



「強い信念の持ち主」と評価していた人が、しばらくすると「頑固な人だ」という評価に変わる。


私の見方が変わったのか。
それとも相手が変わったのか。
あるいは状況の移り変わりが評価を変えたのか。

全部だ。


同じ人物であるにもかかわらず違う人間に映る。
何がそうさせたのか?


「他人に自分の信念を押し付けることがわかったから」
というひとつの因果関係を取り上げて、その人物像の変化について語ることもできる。


だが、それは伏流している変化の一局面を取り上げたに過ぎない。
自分や状況の変化を勘案していない。


観察者もまた変化しているのだ。
すべては取り留めがない。


ただ、変化を可能にしているその流れを構造と呼ぶことにしてみると、
彼が意識できず、しかも彼と彼に関わる「すべての変化を促すもの」をとりあえず可視化することができそうだ。


構造といっても、それは鉄骨でできた不動のフレームのようなものではなく、
人骨のようなものがイメージとしてふさわしい。
人骨のカルシウムは血中に溶け出し、2年で全身の骨細胞は入れ替わる。


強固な形はあるが、常に同じものはひとつもなく、確かに存在してもその変化を意識できない。
つまり構造を無意識といってもいい。


構造は、彼をどの方角にも向かわせる可能性を持つ。


彼が相手に向けて一手を指す。
その意味は、場面によって異なる。

刻々と局面が変わる以上、その手の意味も変化する。
弱い手は、次の「より弱い手」よりも強い。


彼がその手を選ぶ確固とした意味を定義することはできない。


だが「最善手とは何か?」からの手ではなく、
欲得や利害に基づいたもの、打算、狡猾さ安直さ保身が無意識の構造に働きかけた結果の一手かもしれない。


「彼がその時と場で、どういう存在であるか」という意識できない構造により、
彼はそれを行う。そこに選択はない。


行ってしまったことが善かったのか悪かったのか。正しかったのか誤りだったのか。
起きてしまった後、すっかり変化してしまった後からしか判断できない。


構造は風のようなものだ。
ある流れがあってもすぐさま変わる。

自分がその風を選んで乗っているつもりでも、ただ乗せられているだけかもしれない。


何かが起きたとき、その因果に目を奪われがちだ。


風が木の葉を飛ばした。それは事実だ。
事実であればあるほど、
風と木の葉の、その二点間の距離の中での価値に固執してしまう。


だが、風はどこから来たのか。


風向きは常に変わっている。
意外な方向から吹き付けてもくる。

そして、いま吹いた風は、すでに去ってしまった。