懸待表裏
『五輪書』曰く「先といふ事、兵法の第一也」。
「懸待表裏」の待とは、仕掛ける相手に対するものではなく、自身に対するものだと理解すると、存在の関係性や時間、速度というものを改めて考察する上でのガイドラインになってくれそうだ。
何かが起きて、その「とき」が来てはじめて応じることによって関係が発生するのではなく、対手が存在し、空間を共有している時点で、すでに関係は始まっている。
そこで起こりえるのは、常に同時のことで、「何かに対する何か」というタイムラグはない。
我と対手が接触する瞬間は常に同起だ。
だからタイムラグを認めるとは、居着きであり、即死を意味するだろう。
相手を待つのは、自己を疎かにすることであり、相手に依存しているという、現実にはありえない関係性を妄想することに他ならない。
「先といふ事」しかあり得ないのは、自己が自己の存在を全うする以外に生はあり得ないからだ。
待とは状況がどうあれ、自己が自己であり続けること。
つまりは、常に先んじている。そうであれば、懸待は表裏であるのも合点がいく。