東京ひとりめし

友人との会食の約束の刻限までには時間があったので、駅前の丸善に入った。
店内を一巡、目に入った「ミーツ」の別冊「東京ひとりめし」を買った。



前日、比較文化の研究者に取材した際、「孤独」について、学究の話を脇において盛り上がった影響が「ひとり」という言葉に焦点を当ててしまったのかもしれない。


その研究者はこういうことを言った。


「人が孤独でありつつも、決して打ちひしがれることがないのは、“誰かが私を見ている”という確証があるからだ。だが、これは具体的に見ている誰かを名指すことができない。そして、その誰かといつどこで会えるもかわからない。会えないかもしれない。だがしかし、確実に誰かが見ている」


一聞すれば、凡庸な話に思えるかもしれない。が、この話は人とは、どういう生き物なのか、あるいはどういう生き物でありたいかを示しているように思われる。


研究者の話は決して事実の積み重ねから論証される内容ではなく、事実そのものだと思われてならない。


「誰か」は、私の知らないところに存在しているかもしれない。存在していないかもしれない。すでに存在しなくなった誰かかもしれない。


誰かとは誰のことか?


人は原初において、なぜ沈黙のうちに物を交換し始めたのか。なぜ心の躍動を言葉として世界に投げかけたのか。


それは誰かに向けてではなかったか。それはまだ見ぬ確かに存在する他者からの、打ち震えるような応答を待ち望んでのことではなかったか。


確かに存在するが知り得ない他者は遍在している。


いま吹いた風は私の髪をなぶり、いま口をつけた水は私の渇きを癒す。

そのとき出合うまで、出合うことのなかったそれらとの邂逅で、髪はゆれ、喉は潤いを取り戻す。

私はたえず何かと出合い、応じている。



風も水も去った。しかと確かめようのない出合いが常に起きている。
世界の変化とともに私がいることを認めるとき、孤独の静けさにある豊かさに気付けるのかもしれない。