桜井章一さんのこと

 雀鬼こと桜井章一さんに取材した。テーマは教育だ。


 彼の本がここ2年くらい非常に売れている。10年前なら確実に裏の世界の人物であったが、その人の言行がビジネスマンに読まれているのだから、隔世の感がある。
それだけに表の危機的状況を物語っているのかもしれない。


 裏というのは、彼がかつて行っていた「代打ち」のような、アンダーグラウンドの勝負事を指しているのではない。(ちなみに僕が噂に聞いたのは、ある新聞社のオーナーの代打ちを務めたことで、そういう大勝負では億の金が一夜で動いたのだという)


 たとえていえば、野口整体創始者である野口晴哉が弟子とともに催眠の研究をしてた折り、弟子たちが「催眠術」に熱心に取り組む様子を見て、不思議に思い、「私が興味をもっているのは、人を覚醒させる方法だ。互いが互いに催眠をかけあっているのだから、なぜ催眠を学ぶ必要があるのか」といったようなことだ。裏とは、つまり目覚めているつもりがいっそう深い眠りについていることへの警鐘を鳴らす存在ということだ。


 桜井さんは、人に何かを教えることはありえないという。相手に教わることが結果として何かを伝えることになるという。

 よちよち歩きし出した子どもが高い珈琲カップを割った。周りの大人は「ダメでしょう。高いカップを割って」と叱る。桜井さんは、「お見事」と思わず拍手したそうだ。


「高いカップを割ったからいけないと叱る。だったら100円ショップのカップなら割ってもいいのかい? 高い安いは大人の決めごと、価値観でしかない。子どもは大人が何に捕われているか教えてくれた。だからありがたい」


 私たちが当たり前に受け取っている善悪の判断基準は、社会の要請でつくられたものに過ぎない。けれど、生命や存在という、私たちの原点のあり方から見たとき、それらの善悪は本当に私たちの生命を活き活きとさせる秩序と言えるのだろうか。むしろ、たかが頭で考えられた範囲の価値観で囲まれた世界に、身を切り詰めることを正当化しているだけのことではないか。


 努力すること、そして勝つことが正しいとされる。桜井さんは見よう見まねで麻雀を覚え、初めて打ったその日から負けたことがない。努力をしたことがない。
だからこういう。


「勝つことは正しいことでもなんでもないし、楽しくもなんともない。勝つことは奪うことでもある。だから勝つことは怖いことだ」

 私たちが現し世と思っている表の世界は、酔いしれた目で見ているだけの世界かもしれない。