甘き死よ、来たれ

本日からITジャーナリストの佐々木俊尚さんのインタビューが掲載されます。
ご笑覧ください。


佐々木さんのインタビューを通じて思った雑感を少し。


このところの検察関係の報道だけを見ても、マスコミの報道の質の低下は、たしかにひどいものだと思います。しかしながら、「マスゴミ」という文言を使って批判さえすれば、何か言ったような気になる人たちに、僕は嫌悪感を覚えます。打出の小槌扱いに思考停止の自堕落さを見るからです。 己の言説がマスではないゴミであることの可能性について一顧だにしない様に含羞という言葉はいずこにありや、と思うのです。


僕はテレビ、新聞、出版業界のいずれもの端っこに片足を突っ込んできましたが、そこはマスコミというよりは、マスコミ内のミニコミといった風情でした。


僕がその世界に入った当初から「昔はよかった」「本来の姿はこういうもんじゃない」という人が大勢いて、そういう人は揃いも揃って格好よくなかったので、「昔がよかったって本当かな?」と思っていたのですが、幸いなことにどの業界でも「人物」と呼べる人に出会うことができ、そういう人の薫陶を受けることができました。


そうしてわかったのは、「昔がよかった」というのは正確な表現ではなく、「良いものを体現している人の良さ」が現実にあって、そういう良さを育んだ、土壌のような空気のような、文化のようなものが確かにあるときそこに存在して、でもそれは無形の何かだから、時が過ぎれば「昔は良かった」としか言いようのない何かであったということ。


今日、町中を歩いていると梅の甘い香りが漂い、一本路地を過ぎれば沈丁花の切ない香りがして、けれども角を曲がれば、香りは掻き消えていたのです。
確かにあったあのときの幸福な感じ。胸底にずっと響いているような、そういう余韻にも似た何かが、ある時代にマスメディアにも確かにあった。
そして、それがもう消えつつある。


僕は「良い景色の人たち」に出会って学んだのは、人や世界の奥行きに目を凝らせば見えてくる豊かさだったり悲しさだったような気がします。


たぶん佐々木さんのいうような事態に進行していくのでしょう。進行せざるを得ない歪みを孕んでいるのは確かでしょうが、次に開ける世界は、僕が「良い景色」と思えるようなものはないのかもしれない。


インターネット上の言説の特徴は可視化と透明性にありましょうし、その良さもあるでしょう。
透明性とは曖昧さを容認しないことでもあります。情報に置き換えれば正否として明確に片付けられることも、実はその正と否のあいだには、ものすごい陰影があって、その陰影の濃淡には、ようやく息を継いで生きたり、地べたを這いずり回ったり、人を騙したり、喜びを分かち合ったりするような、悲喜こもごもの情感が塗り込められているんだろうと思います。


人の身幅に起こりうるさまざまなことがネット上の言説に期待できるかというと、僕にはよくわかりません。
それはツィッターでつぶやいても仕方のないことなのかもしれません。そっと胸のうちにしまっておくしかないものかもしれません。