この日の学校

昨日、森田真生さん甲野善紀さんの主宰する「この日の学校in東京」に参加した。
数学者の岡潔いうところの数学のもたらす「鋭い喜び」を伝えるため、「この日の学校」というワークショップを開かれている。そこではたとえば、「いちばんを考える」というような問いかけが行われる。


数学はからきしだから、森田さんの話す1/10も理解していない。

けれど、言葉のこもる熱の高さを通じて、そのおもしろさは痛いほどわかる。ひりひりとする。


昨日、ぐっと来たのは、


 「数学は観測される以前の世界について考える」
 「内と外をわけるというと当たり前すぎるけれど、これを証明するのは意外と難しい」
 「数学とは自明さへの疑い」「存在から表現へ」


などという言葉で、これにわくわくするのは、たぶん僕だけではないはず。


数学という土俵にのった専門的な問いは浮かばないけれど、「観測される以前の世界には、時間は流れているのか?観測される以前の世界が在ると証明できたとして、それが認定できる存在は誰なのか?」


不可能なことについて考えるというときの、その「考える」はいわゆる普通の「概念化」とは違うことが起きているのだろうが、言葉にして説明する以上、概念として提出せざるを得ない。

そうなるとAといってしまってはBであることの可能性を奪ってしまう。それを花といってしまっては、花はほかの一切のものから断たれてしまう。


数学的言語と言語の違いは何なのだろう。


いわゆる普通の思考は逐次的だけれど、それとは違うことが起きているのではないかと勝手に想像しても、言語自体がもつ単線的にしか記述できないということとの相容れなさはどうなっているんだろう?
せいぜい想像できて詩の言葉のような切れ目のなさだ。

なんたる想像力のなさだろう。


それにしても森田さんと甲野さんの組み合わせは、「手術台の上の、こうもり傘とミシンの出会いのよう」だった。
久しぶりに手合わせをしていただいたけれど、ますます力感の失せた技で、どうもこうもしようがなく笑うほかなかった。