清浄

96年以来、通っていた下北沢の「はるがだ」が昨年夏、店主のツルさんの病により閉店となってしまった。
本当に悲しい。


「はるがだ」を知ったのは、ルポライター藤井誠二さんに連れていってもらったことがきっかけだ。
当時、ぜんぜん食えなかった(いまもあまり変わらないけど)僕は、ほぼ週一で藤井さんに「はるがだ」でご飯をご馳走になっており、足を向けて寝られない。


「うまいなぁ」と嘆息すると、ツルさんは「オレ、天才だから」と言っていた。ぜんぜん嫌味に聞こえなかったし、得心いく味だった。
いつかまた元気になって復活して欲しい。



「どや」という感じで美味さを押してくる店はいろいろあるけれど、単線的でなく多角的に割れた味を提供してくれる店は少ない。
大げさかもしれないけれど、その人となりが伝わってくる料理というものがやっぱりあるんだと思う。


そういうところで最近お気に入りなのが、高円寺の清浄だ。ポルトガル料理を出してくれる居酒屋で、手頃な値段もうれしい。白を基調とした店内も清潔感があってすてきだ。


塩と油を効かせた食事だと否応なく酒も進むというものだが、清浄はそういう賢しいことをしない。どの料理も絶妙な塩加減で、口に運ぶたび「ん〜」と唸ってしまう。
加えるのではなく、余計なことをしない。それを基調に料理をつくっているのだろう。


店主の方は見た目は少し神経質そうだけど、張りつめた線の細さではなく、細い線がより合わさった佇まいをもっている。
とても清潔な感覚の持ち主なのだろう。



清らかさというのは、なにをおいても知性を要するものだと思う。それにはたゆまぬ自己教育への探求が必要だから。


一般的に教育とは、経験し、概念を得ていくことだと思われているけれど、自得する学びとは、むしろ概念の外に出ることを意味する。
つまりは概念をもって概念を消す。



なぜなら人は世界を自分が見たものの総量に等しいと錯覚してしまうからだ。日常の中で味わう繰り返される実感がそのことを補強する。それは自ら見たものに馴致されることでしかない。
だから消すこと、捨てることが重要になってくる。


考えられたものの外に出ることを可能にするのは、言葉の集積によらない知性への信頼。


ここでいう知性とは、己と相容れない他を否定することにのみ捧げられるのではなく、論理的に詰めていきながらも確定した答えではなく、問いをもち続けることにかかわる人のありようを指す。

懸崖に立ち続けるような孤独さを厭わない精神といってもいい。


そういう意味で感銘を受けた記事を最後に紹介したい。
二十歳の青年がこれを書いたことに、この国の未来は明るいんじゃないか?と思えてしまう。

ファッションレイシズムとウェブマイノリティの戦い方


クラウス・コルドンはベルリン三部作の中巻『ベルリン1933』で、政権を掌握したナチがブランデンブルク門から出発し、松明行進を行おうとする際、登場人物、ヘレにこう言わせている。


「理解できないことは、学ばないとな。どんなにつらくても」


レイシストの吐く言葉に傷つく前にすべきことがたくさんあるのだなと、彼のブログを読んで改めて思った。