飛跡

「嘘も言い続けりゃ本当のことになる。さぁ、だからオレの胸に飛び込んで来い!」


普段なら「陳腐な」と思うところが、12年前に初めて見た、つかこうへいの「寝盗られ宗介」で、
藤山直美に向けた西岡徳馬のセリフに感電した。


若い役者が四肢を大きく伸ばし、跳ねて弾んで演技する中、着物姿の藤山直美はただ立っているだけで芝居を完遂させていた。舌を巻いた。


つかこうへいが亡くなったと聞いて、その光景を思い出した。
つかこうへいというペンネームが「“いつか公平”な世の中になるように」という思いを託したというのは、
彼が在日韓国人であった出自にいろんな意味を与えようとする思惑への意図的に流されたフォークロアだと思う。

久方ぶりに休みをとって、昨日、上野科学博物館へ出かけた。
決まって地球館の地下3階にある「霧箱」を見る。地球に降り注いでくる高エネルギーの粒子である宇宙線の「飛跡」を可視化する装置だ。


いついっても「すごい」としか言えない。アルコールの蒸気とぶつかり、パッと煙りが立ち上がり、ゆらゆらと動き、消えて行く。おそらく凄まじい爆音が本当はしているんだと思う。


その現れから消失までははっきりとしているのに、目を凝らして見ようとすればするほど、いつ始まって、いつ終わったのかがわからない。


そうしていつも思い当たって総毛立つのは、粒子の飛跡を見るとは、
「見ようとしている当のそのものではないものを見ている」ことだ。見ているものは常に残像でしかない。


「嘘も言い続けりゃ本当のことになる」という。


言葉に意味を見出そうとしても、言葉が予め意味を与えている。
解釈は、実は読み込みたいものを投げかけておきながら、あたかも発見したかのように拾い上げる行為に似ている。


そもそもが嘘なのだ。私が誰かに花について語っても、ここに花が咲くわけではない。
常にそこにないもの、それではないものを語るための嘘が言葉の役割で、それでしかを何かを伝えることができない。


言い続けても本当のことにならないが、言い続けるとそれが本当であるかのように思われてきてしまう。
たとえば、愛国心とか伝統とか、それについて言い続けると実体をもった何かのように思えてきてしまう。


近所の商店街の電柱に「在日やくざ追放!」と大書され、「まじでむかつく在日やくざ」というステッカーが脇に貼られていた。

これは「在日のやくざ」ではなく、「在日という存在そのものがやくざ」と解釈したほうが、それを行った徒輩の心中を忖度することになるのだろう。


仲間内で通じ合っていた符牒が現実にせり出してきた気がした。
嘘も言い続ければ本当になる。


近くの薬局でアルコールを買い、家から雑巾をもってき、その電柱の文字を消した。できれば、この国を覆いつつある悲しみや怒りが消えればいいなと念じつつ。私は何も特権的な存在ではなく、特権などもっていない。



言葉によって「まさにこれが現実だ」と私たちが思っているものは、いつも何かの飛跡でしかない。
常に「それ」ではない嘘を実体化させるのは、私たちのありようだ。
そのことについて語りたい。