ベーシックインカムについて小飼弾さんに聞く

本日から小飼弾さんのインタビューが掲載されます。
ベーシックインカムについて尋ねています。


経済の専門家から言わせたら、きっといろいろ問題のある構想なのでしょうが、世の中を回天させる梃子になりえる発想や着眼点なのではないかと思います。
ご笑覧ください。

霊性について

今朝、ひさしぶりにフリーメイソンにまつわる陰謀論を聞いた。
東京タワーの高さに隠された秘密であるとか鳩山首相の友愛のルーツ云々という話だ。


フリーメイソンににかぎらず、ホロコースト否定であれ、“民主党の正体”や在日特権であれ、おおよそ陰謀論に対する私の考えは、「居酒屋でへべれけになった折に話すくらいがちょうどいい」というもので、陰謀論を扱うには呂律のまわらぬ口調が必要で、もっともそれが事の実寸を語るにふさわしい。


そもそも陰謀とされるものは、すでに公開されている事実に基づいており、たいていの陰謀論はその組み合わせで生まれた認識をもって瞠目すべき真実という。
そのように見えて仕様のない人を「おかしい」と非難したところ、そう見えるのだから仕方ない。


根源的に人は自分の見たいようにしか見られないのだから、私も彼らも同じ地平にいるのかもしれない。
だが、彼も我も一緒ではあまりに無責任に過ぎる。では、どこで線引きをするか?


陰謀論に近しさを覚える人たちに感じるのは、霊性、霊的なものに対する感度の低さだ。
ここでいう霊とは、江原某のいうような代物ではない。


たとえば中国語では(主に武術方面で使われるのだろうが)「霊活」という表現がある。
「活き活きとして目にも止まらぬ早さ」と訳せるだろうが、つまりは霊とは「目にも止まらぬ」というような「確かにあることはわかってもしかとは言えないもの」を指す。
老子」を引き合いにだせば、神あるいは玄と言ってもいいだろう。


陰謀論の信奉者はいう。
「普段は見えないが、子細に見れば見えてくる事柄について体系立てたものであり、その傍証は膨大にある」と。


なるほど。ディテールだけはやたらと細かいのは陰謀論の特徴だが、理由は彼らの世界観が牽強付会を下支えとしており、それを知的能力と思っているからだろう。


陰謀論は、自らが抑圧されている被害者であるという認識を温床にはびこりやすい。
奪われた者は、表向きの事実に騙されることのない真実を探求し、そのことにより自由を獲得する資格がある。
奪われた者は、世界の体系を明らかにする自由な思考を武器とする。


だが自己を被害者と規定するものは、対手を常に加害者の位置に置く。対手は必ずや奪う者でなければならない。こうして想定の決まった思考を果たして自由と呼べるだろうか。


彼らは目に見えないものを見るのではなく、見えもしないものを見えるとする。
それは想定という制限内での自由な思考のもたらす不自由さが帰結する。


自由な思考は、そうとは確かには聞こえない、見えないもの<霊>について、息をつめて言葉を紡ぐ中に束の間あらわれるものではないか。


しかしながら、陰謀論を二流の知性と蔑めば事が済む問題でもない。陰謀論が炙り出すのは、体系的な思考に信頼を寄せ、知識との照らし合わせの中で正しさを確保しようとする余念のなさだ。
そこに安堵を覚えるのは、自前の感性とそれを支える生のありようへの怯えを証明しているからだ。本当に警戒すべきはそのことかもしれない。

清浄

96年以来、通っていた下北沢の「はるがだ」が昨年夏、店主のツルさんの病により閉店となってしまった。
本当に悲しい。


「はるがだ」を知ったのは、ルポライター藤井誠二さんに連れていってもらったことがきっかけだ。
当時、ぜんぜん食えなかった(いまもあまり変わらないけど)僕は、ほぼ週一で藤井さんに「はるがだ」でご飯をご馳走になっており、足を向けて寝られない。


「うまいなぁ」と嘆息すると、ツルさんは「オレ、天才だから」と言っていた。ぜんぜん嫌味に聞こえなかったし、得心いく味だった。
いつかまた元気になって復活して欲しい。



「どや」という感じで美味さを押してくる店はいろいろあるけれど、単線的でなく多角的に割れた味を提供してくれる店は少ない。
大げさかもしれないけれど、その人となりが伝わってくる料理というものがやっぱりあるんだと思う。


そういうところで最近お気に入りなのが、高円寺の清浄だ。ポルトガル料理を出してくれる居酒屋で、手頃な値段もうれしい。白を基調とした店内も清潔感があってすてきだ。


塩と油を効かせた食事だと否応なく酒も進むというものだが、清浄はそういう賢しいことをしない。どの料理も絶妙な塩加減で、口に運ぶたび「ん〜」と唸ってしまう。
加えるのではなく、余計なことをしない。それを基調に料理をつくっているのだろう。


店主の方は見た目は少し神経質そうだけど、張りつめた線の細さではなく、細い線がより合わさった佇まいをもっている。
とても清潔な感覚の持ち主なのだろう。



清らかさというのは、なにをおいても知性を要するものだと思う。それにはたゆまぬ自己教育への探求が必要だから。


一般的に教育とは、経験し、概念を得ていくことだと思われているけれど、自得する学びとは、むしろ概念の外に出ることを意味する。
つまりは概念をもって概念を消す。



なぜなら人は世界を自分が見たものの総量に等しいと錯覚してしまうからだ。日常の中で味わう繰り返される実感がそのことを補強する。それは自ら見たものに馴致されることでしかない。
だから消すこと、捨てることが重要になってくる。


考えられたものの外に出ることを可能にするのは、言葉の集積によらない知性への信頼。


ここでいう知性とは、己と相容れない他を否定することにのみ捧げられるのではなく、論理的に詰めていきながらも確定した答えではなく、問いをもち続けることにかかわる人のありようを指す。

懸崖に立ち続けるような孤独さを厭わない精神といってもいい。


そういう意味で感銘を受けた記事を最後に紹介したい。
二十歳の青年がこれを書いたことに、この国の未来は明るいんじゃないか?と思えてしまう。

ファッションレイシズムとウェブマイノリティの戦い方


クラウス・コルドンはベルリン三部作の中巻『ベルリン1933』で、政権を掌握したナチがブランデンブルク門から出発し、松明行進を行おうとする際、登場人物、ヘレにこう言わせている。


「理解できないことは、学ばないとな。どんなにつらくても」


レイシストの吐く言葉に傷つく前にすべきことがたくさんあるのだなと、彼のブログを読んで改めて思った。

この日の学校

昨日、森田真生さん甲野善紀さんの主宰する「この日の学校in東京」に参加した。
数学者の岡潔いうところの数学のもたらす「鋭い喜び」を伝えるため、「この日の学校」というワークショップを開かれている。そこではたとえば、「いちばんを考える」というような問いかけが行われる。


数学はからきしだから、森田さんの話す1/10も理解していない。

けれど、言葉のこもる熱の高さを通じて、そのおもしろさは痛いほどわかる。ひりひりとする。


昨日、ぐっと来たのは、


 「数学は観測される以前の世界について考える」
 「内と外をわけるというと当たり前すぎるけれど、これを証明するのは意外と難しい」
 「数学とは自明さへの疑い」「存在から表現へ」


などという言葉で、これにわくわくするのは、たぶん僕だけではないはず。


数学という土俵にのった専門的な問いは浮かばないけれど、「観測される以前の世界には、時間は流れているのか?観測される以前の世界が在ると証明できたとして、それが認定できる存在は誰なのか?」


不可能なことについて考えるというときの、その「考える」はいわゆる普通の「概念化」とは違うことが起きているのだろうが、言葉にして説明する以上、概念として提出せざるを得ない。

そうなるとAといってしまってはBであることの可能性を奪ってしまう。それを花といってしまっては、花はほかの一切のものから断たれてしまう。


数学的言語と言語の違いは何なのだろう。


いわゆる普通の思考は逐次的だけれど、それとは違うことが起きているのではないかと勝手に想像しても、言語自体がもつ単線的にしか記述できないということとの相容れなさはどうなっているんだろう?
せいぜい想像できて詩の言葉のような切れ目のなさだ。

なんたる想像力のなさだろう。


それにしても森田さんと甲野さんの組み合わせは、「手術台の上の、こうもり傘とミシンの出会いのよう」だった。
久しぶりに手合わせをしていただいたけれど、ますます力感の失せた技で、どうもこうもしようがなく笑うほかなかった。

甘き死よ、来たれ

本日からITジャーナリストの佐々木俊尚さんのインタビューが掲載されます。
ご笑覧ください。


佐々木さんのインタビューを通じて思った雑感を少し。


このところの検察関係の報道だけを見ても、マスコミの報道の質の低下は、たしかにひどいものだと思います。しかしながら、「マスゴミ」という文言を使って批判さえすれば、何か言ったような気になる人たちに、僕は嫌悪感を覚えます。打出の小槌扱いに思考停止の自堕落さを見るからです。 己の言説がマスではないゴミであることの可能性について一顧だにしない様に含羞という言葉はいずこにありや、と思うのです。


僕はテレビ、新聞、出版業界のいずれもの端っこに片足を突っ込んできましたが、そこはマスコミというよりは、マスコミ内のミニコミといった風情でした。


僕がその世界に入った当初から「昔はよかった」「本来の姿はこういうもんじゃない」という人が大勢いて、そういう人は揃いも揃って格好よくなかったので、「昔がよかったって本当かな?」と思っていたのですが、幸いなことにどの業界でも「人物」と呼べる人に出会うことができ、そういう人の薫陶を受けることができました。


そうしてわかったのは、「昔がよかった」というのは正確な表現ではなく、「良いものを体現している人の良さ」が現実にあって、そういう良さを育んだ、土壌のような空気のような、文化のようなものが確かにあるときそこに存在して、でもそれは無形の何かだから、時が過ぎれば「昔は良かった」としか言いようのない何かであったということ。


今日、町中を歩いていると梅の甘い香りが漂い、一本路地を過ぎれば沈丁花の切ない香りがして、けれども角を曲がれば、香りは掻き消えていたのです。
確かにあったあのときの幸福な感じ。胸底にずっと響いているような、そういう余韻にも似た何かが、ある時代にマスメディアにも確かにあった。
そして、それがもう消えつつある。


僕は「良い景色の人たち」に出会って学んだのは、人や世界の奥行きに目を凝らせば見えてくる豊かさだったり悲しさだったような気がします。


たぶん佐々木さんのいうような事態に進行していくのでしょう。進行せざるを得ない歪みを孕んでいるのは確かでしょうが、次に開ける世界は、僕が「良い景色」と思えるようなものはないのかもしれない。


インターネット上の言説の特徴は可視化と透明性にありましょうし、その良さもあるでしょう。
透明性とは曖昧さを容認しないことでもあります。情報に置き換えれば正否として明確に片付けられることも、実はその正と否のあいだには、ものすごい陰影があって、その陰影の濃淡には、ようやく息を継いで生きたり、地べたを這いずり回ったり、人を騙したり、喜びを分かち合ったりするような、悲喜こもごもの情感が塗り込められているんだろうと思います。


人の身幅に起こりうるさまざまなことがネット上の言説に期待できるかというと、僕にはよくわかりません。
それはツィッターでつぶやいても仕方のないことなのかもしれません。そっと胸のうちにしまっておくしかないものかもしれません。

桜井章一さんのこと

 雀鬼こと桜井章一さんに取材した。テーマは教育だ。


 彼の本がここ2年くらい非常に売れている。10年前なら確実に裏の世界の人物であったが、その人の言行がビジネスマンに読まれているのだから、隔世の感がある。
それだけに表の危機的状況を物語っているのかもしれない。


 裏というのは、彼がかつて行っていた「代打ち」のような、アンダーグラウンドの勝負事を指しているのではない。(ちなみに僕が噂に聞いたのは、ある新聞社のオーナーの代打ちを務めたことで、そういう大勝負では億の金が一夜で動いたのだという)


 たとえていえば、野口整体創始者である野口晴哉が弟子とともに催眠の研究をしてた折り、弟子たちが「催眠術」に熱心に取り組む様子を見て、不思議に思い、「私が興味をもっているのは、人を覚醒させる方法だ。互いが互いに催眠をかけあっているのだから、なぜ催眠を学ぶ必要があるのか」といったようなことだ。裏とは、つまり目覚めているつもりがいっそう深い眠りについていることへの警鐘を鳴らす存在ということだ。


 桜井さんは、人に何かを教えることはありえないという。相手に教わることが結果として何かを伝えることになるという。

 よちよち歩きし出した子どもが高い珈琲カップを割った。周りの大人は「ダメでしょう。高いカップを割って」と叱る。桜井さんは、「お見事」と思わず拍手したそうだ。


「高いカップを割ったからいけないと叱る。だったら100円ショップのカップなら割ってもいいのかい? 高い安いは大人の決めごと、価値観でしかない。子どもは大人が何に捕われているか教えてくれた。だからありがたい」


 私たちが当たり前に受け取っている善悪の判断基準は、社会の要請でつくられたものに過ぎない。けれど、生命や存在という、私たちの原点のあり方から見たとき、それらの善悪は本当に私たちの生命を活き活きとさせる秩序と言えるのだろうか。むしろ、たかが頭で考えられた範囲の価値観で囲まれた世界に、身を切り詰めることを正当化しているだけのことではないか。


 努力すること、そして勝つことが正しいとされる。桜井さんは見よう見まねで麻雀を覚え、初めて打ったその日から負けたことがない。努力をしたことがない。
だからこういう。


「勝つことは正しいことでもなんでもないし、楽しくもなんともない。勝つことは奪うことでもある。だから勝つことは怖いことだ」

 私たちが現し世と思っている表の世界は、酔いしれた目で見ているだけの世界かもしれない。





リニューアルします

ブログを書き始めて2年が経ちました。

2年間のアクセス数がだいたい2万2000。これが多いのか少ないかわかりません。
少なくともこれほどまでに益体なく、しかも抽象的なことしか書いていないにもかかわらず、のべ2万人の方に読んでいただいたことに驚いてます。


ちなみに拙著『FLOW』も4年かけて3刷でだいたい4000部。ロングテールというには、あまりにもあしびきの山鳥の尾のしだり尾のような長々しさ加減ですが、これもamazonあってのこととはいえ、あのような「ああでもなく、こうでもなく」な内容を4000人も読んでいただけたことにありがたさもありますが、不思議さを感じています。


さて、昨日ブログのデザインを変えてみました。今後は書くことも少しばかり変えていってみようと思います。


これまではあまりにも取りつく島のないようなことをただ一方的に書いているだけでしたが、もう少し取りつく島の縁か岩礁くらいはあるようなことを綴っていこうと思っています。


twitterで呟いていることが、こちらで書いていたようなことをぎゅっと詰めたような内容なので、もう少し広がりあることを書いてみたいと思った次第です。
これからもどうぞごひいきください。


雄大

ちなみにここにいます↓
http://twitter.com/nonsavoir