偏差

この空間、時間において自他に区別をもうけているのは意識であり、
突き詰めると外界の現象と私という現象の境目はあるようでない、ないようであるような、

境界は波打ち寄せる汀のような、絶えず形を変える形あってないような淡いとしてあるようなもの。


私という存在は、ここにあって、

ここにあるという身体の存在の仕方は、すべての方位に向けて膨張と圧縮が同時に存在しており、
特定の方角に傾斜していることはなく、そうでなければならない謂れもない。


事実がそうでありながら、右か左かという現象に宿る意識の明滅の偏りをもって、己が存在と決めつけるのは、
自己に対する冒瀆であり越権であり、存在の可能性を自ら閉ざす愚かな行為にほかならないだろう。

五百生

ある僧に聞法因縁五百生 同席対面五百生について聞いた。


僧曰く「五百回の生まれ変わりの昔から法を聞く機会を与えられていたが、真実を知る縁がいままさに眼前にした人との出会いにおいて花咲いている」。


ある出会いに伴う因縁が五百回の生まれ変わりという果てしのない時間を経て、開花した。
だから、この出会いは大事なのだ。一期一会は貴重なのだという。

そして、僧が「昔の縁が五百回生まれ変わったいま実現している」だけでは半知半解に過ぎず、「いまどう生きるかによって、これから先が変わる」と述べたとき、僧の見解をよそに「五百生・いま・これから」についての合点と疑問が芽生えた。


五百生を経たほどの同席対面の相手であれば、特別の真理を伝えるメッセンジャーに違いないだろう。そう捉えれば、日常の出会いは「因縁五百生」には数えられない。
だが同席対面は電車の中、喫茶店、営業先で常に起きている。


ならば出会っている事実が既にして法なのではないか?
雑踏を行き交う中で誰かと触れる。
些細な出来事はしかし、玄関を出る時間が0.1秒でも早く、あるいは遅ければ起こりえなかった事態かもしれない。


刹那のささやかな出会いは、人間の認識では及びようもない深い因縁があって起きている。
この生きている不可思議さに邂逅することそのものが既に「聞法」、つまり真実を聞くことではないか。


対面した相手は特別のメッセージを伝えはしない。ただ、私はこの出会いについて問うことができる。


そして僧の言った「いまどう生きるかによって、これから先が変わる」というとき、その言明をどうしても因果関係で捉えてしまうのだが、五百生とは、生まれ変わった過去の堆積量ではなく、いまこうして生きている刹那が果てしない因縁の絡み合いのまさにただ中にあることを表すものだと把捉するとき、過去と未来は生じず、時は流れず、ただいまがあることになる。


いまどう生きるかによって変わるのは、ただいま現在であり、五百生とは、ただいま現在のことではないか。

Love Me Tender

実家の母から電話があり、弟の近況について話す。


弟は今年に入り、高校を中退し、通信教育を受けている。彼の行く末に母は気を揉んでいる。


私と弟とは異母兄弟で、23歳離れている。自分の子供といってもいい年齢差だ。思春期の絶頂にいる彼のやるせなさに共感するところあるだけに、動向は気にかかる。


母とは6歳しか違わない。半年に一度しか会わない。継母であり、国籍も異なり、姓も違う。
彼女は四散しそうな家族をまるで茶碗の金継ぎのように取りまとめようとしている。


つらつら思うに実母のいた頃からちゃんとした機能不全家族であり、それをいまも継承しているといえるが、母のおかげで希薄な関係ながら家族であり続けている。

家族が機能不全だからといって、それがすべての不幸を決定するわけでもなく、家族の姓が母と私と弟で違うからといって、その構成員は不幸なわけではない。形骸に幸福を求めるほうが誤っている気がする。


考えてみれば、父には参照すべき父や家族像が周囲になかったのだ。
父曰く「オレのオヤジは気がついたときはもうオヤジではなかった」。
祖父は父が物心ついた頃、アルコールで精神は荒廃し、まともに話のできない状態であったという。

六畳一間の長屋、就職しようにも教師からは「朝鮮人に仕事があるわけない」の一言で済まされた。
父のよすがは、貧しさと悲しさと怒りであった。


祖父の死後、祖母は出口ナオのように赤貧の中でシャーマニックな能力に目覚め、卜占を日々のたつきとした。子らはそこに異形さを見た。

父は北朝鮮への帰国船に乗ろうとした。
一度も温かく接されたことのない人間のやさしい抱擁を求めての、架空のホームタウンへの帰還を夢見てのことだったのかもしれない。


家族の機能不全の要諦は父にあるが、彼のメッセージは70を超えて、いまなお「Love Me Tender」だ。
彼の理不尽な行動の背景に、貧しさと悲しさと怒りに震える少年の姿を見る。

飛跡

「嘘も言い続けりゃ本当のことになる。さぁ、だからオレの胸に飛び込んで来い!」


普段なら「陳腐な」と思うところが、12年前に初めて見た、つかこうへいの「寝盗られ宗介」で、
藤山直美に向けた西岡徳馬のセリフに感電した。


若い役者が四肢を大きく伸ばし、跳ねて弾んで演技する中、着物姿の藤山直美はただ立っているだけで芝居を完遂させていた。舌を巻いた。


つかこうへいが亡くなったと聞いて、その光景を思い出した。
つかこうへいというペンネームが「“いつか公平”な世の中になるように」という思いを託したというのは、
彼が在日韓国人であった出自にいろんな意味を与えようとする思惑への意図的に流されたフォークロアだと思う。

久方ぶりに休みをとって、昨日、上野科学博物館へ出かけた。
決まって地球館の地下3階にある「霧箱」を見る。地球に降り注いでくる高エネルギーの粒子である宇宙線の「飛跡」を可視化する装置だ。


いついっても「すごい」としか言えない。アルコールの蒸気とぶつかり、パッと煙りが立ち上がり、ゆらゆらと動き、消えて行く。おそらく凄まじい爆音が本当はしているんだと思う。


その現れから消失までははっきりとしているのに、目を凝らして見ようとすればするほど、いつ始まって、いつ終わったのかがわからない。


そうしていつも思い当たって総毛立つのは、粒子の飛跡を見るとは、
「見ようとしている当のそのものではないものを見ている」ことだ。見ているものは常に残像でしかない。


「嘘も言い続けりゃ本当のことになる」という。


言葉に意味を見出そうとしても、言葉が予め意味を与えている。
解釈は、実は読み込みたいものを投げかけておきながら、あたかも発見したかのように拾い上げる行為に似ている。


そもそもが嘘なのだ。私が誰かに花について語っても、ここに花が咲くわけではない。
常にそこにないもの、それではないものを語るための嘘が言葉の役割で、それでしかを何かを伝えることができない。


言い続けても本当のことにならないが、言い続けるとそれが本当であるかのように思われてきてしまう。
たとえば、愛国心とか伝統とか、それについて言い続けると実体をもった何かのように思えてきてしまう。


近所の商店街の電柱に「在日やくざ追放!」と大書され、「まじでむかつく在日やくざ」というステッカーが脇に貼られていた。

これは「在日のやくざ」ではなく、「在日という存在そのものがやくざ」と解釈したほうが、それを行った徒輩の心中を忖度することになるのだろう。


仲間内で通じ合っていた符牒が現実にせり出してきた気がした。
嘘も言い続ければ本当になる。


近くの薬局でアルコールを買い、家から雑巾をもってき、その電柱の文字を消した。できれば、この国を覆いつつある悲しみや怒りが消えればいいなと念じつつ。私は何も特権的な存在ではなく、特権などもっていない。



言葉によって「まさにこれが現実だ」と私たちが思っているものは、いつも何かの飛跡でしかない。
常に「それ」ではない嘘を実体化させるのは、私たちのありようだ。
そのことについて語りたい。

ダイアロゴスのお知らせ

ポーランドの詩人、レッツはこういった。


「誰がテーゼとアンチテーゼに、きみらはジンテーゼになりたいかと きくだろうか」


確かにテーゼもアンチテーゼも各々の正しさがいずれ止揚されるべきものだとは考えもしまい。
自分の意見が自分にとって正しいと思われるほど、いよいよ相手の掲げる正しさが疑わしく見えてくるものだ。


なぜ人は自己の意見にこだわってしまうのか?
意見の対立をもたらすものは何か?


自分にとって切実な問題になればなるほど、自分の抱いた想定や知識、経験をもとに人は語り、それが正しいことを信じて疑わない。


だが60億分の1の脳内に宿った考えが正しいなどと言えるとしたら、それこそ妄想ではないだろうか。


私たちは、ここに会話でも議論でもない、対話の場「ダイアロゴス」を始めることにした。

(いまのところ核となっているのは、韓氏意拳のメンバーです。おそらくは形骸化した真実を記述することではなく、何が真実か?を表現すること、探求することに関心のある人が多いからで他意はありません)


マンハッタン計画に寄与した量子物理学者のデヴィッド・ボームは「ダイアローグ」を開き、多くの人と対話を重ねた。
それは議論ではなく、確定した答えを出す場でもなかった。


「真実と、一貫性のあること(コヒーレンス)に関心を持つことが大事だ」とボームはいう。


一貫性とは、常に自分が何を行っているかについて絶えず鋭敏に覚醒していることだ。

守らなくてはならない自己の生まれる隙間を自分に与えないとき、開かれた対話に向けたチャンスは生まれるのだから。



関心のある方はぜひ一度参加してみてください。

辞任演説

2010年6月2日、鳩山由紀夫首相が辞意を表明した。


いまのところ目を通した新聞媒体そのほかも「移設問題をめぐる迷走」という書き方をしている。


いったいその迷走とは、
日米安保を射程距離に据えたことを明確に表明しなかったことなのか。
あるいは沖縄に基地が偏在していたことの是正を求めたことなのか。
それとも首相の意志がぶれたように見えたことなのか。


いずれを指しているかどれを読んでもわからなかった。
アメリカに従属することが唯一の正しい基準なのか?
一年後、私たちはどういう政局のもと暮らしているだろう。


そうして、どのメディアも積極的に取り上げていない辞任演説を抜粋し、記憶にとどめようと思う。
このような発言は歴代の首相から聞くことはなかった。


「本当に沖縄の外に米軍の基地をできる限り移すために、努力をしないといけない。今までのように沖縄の中に基地を求めることが当たり前じゃないだろう、その思いで半年間、努力してきましたが、結果として県外にはなかなか届きませんでした」


「日本の平和、日本人自身で作り上げていく時を、いつかは求めなければならないと思っています。米国に依存し続ける安全保障、これから50年、100年続けていいとは思いません」


この発言を愛国主義と呼ばずしてなんと形容しよう。